防災・減災への指針 一人一話

2013年11月18日
住民の団結力と復興の難しさ
東日本大震災当時の八幡下一区長
津田 孝造さん
津田さんの奥様
津田 朝子さん

消防団員としての初動

(聞き手)
 発災後、消防団員としてすぐに出動されたとお伺いしました。

(津田様)
災害時には地域の安全を確保することに努めています。危険が迫っているとの判断で即座に出勤しました。
分団員はポンプ車で津波警報の広報活動をし、私はラジオから流れる報道に驚きつつも、砂押川の水位を鎮守橋の上から確認していました。
そうすると、沖の方から真っ黒い油のような水が大きく波打って迫ってきて、船尾も橋げたにぶつかりました。
慌てふためいて、消防団第五分団のポンプ小屋に戻ろうとしたところ、国道45号から大きな波とともに数台の乗用車、大型トラック、パトカー、そして、人が流れてくるのが見えました。
まるで映画のワンシーンのようで、事の重大さに足がすくんでしまいましたが、フッと我に返り、区長としての業務をすべく、避難所となっている八幡公民館に向かっていました。
そこは250人くらいの人でごった返していました。
横にもなれず、座ったまま一夜を過ごしました。
ちょうど、八幡公民館は工期を早めて耐震工事を終えていました。
この災害の事を予期していたかのようです。
私の弟が手がけた工事でした。

(津田様の奥様)
震災時、主人と一緒に、孫の卒業式に出席し、外で昼食を終えて、イオン多賀城近くの集合店舗の駐車場でものすごい揺れを感じました。
すぐ、車で帰宅しました。
その時、主人の弟は仕事現場から二回ほど、主人が経営する工務店の事務所に来たのですが、主人はすぐに消防団に出勤したので会うことができませんでした。
いつも笑顔の塊のようだった弟が、珍しく落ち込んだ様子で軽トラックに乗る後姿が走馬灯のごとくよみがえってきます。
主人は退院したばかりだったので、弟は「兄貴は? 兄貴はどこ行ったの?」と心配した言葉が、私の聞いた弟の最後の言葉でした。

(聞き手)
宮内にある八幡神社の隣が弟さんの自宅でしょうか。

(津田様の奥様)
はい、そうです。
自社の倉庫兼作業所も隣接していましたが、全て被災しました。
弟は八幡にある事務所から宮内の家族のもとに戻り、家族5人が車2台に分乗し、イオン多賀城の手前辺りで津波にのみこまれたようでした。
弟の妻は仕事や休みで自宅におり、長女は里帰り出産で退院し、初孫は生後20日目でした。
長男も仕事が休みで彼女と逢っている時に地震にあい、すぐさま自宅に戻ったとの事でした。
いつも仲の良い家族だったので5人一緒に逃げたのでしょう。
2日経っても連絡が付かず、嫌な予感がしていました。
遺体捜索のため、ガソリン不足の中、お隣の利府町にあるグランディ21に毎日通いました。
1か月後、それぞれ別の場所で発見された5人が変わり果てた姿で帰ってきました。

救助活動の障害となった瓦礫

(聞き手)
 消防団ではどのような活動をしていたのですか。

(津田様)
3月11日は雪の舞う日で、とても寒かった事を覚えています。電気が途絶えていましたので、市役所との連絡が全く取れないし、街灯もすべて点いていないので、暗い所を手探りで救助活動をしました。
暗がりから助けを呼ぶ声がたくさん聞こえて来たので、助けに行きたかったのですが、がれきが邪魔をして行きたくても進む事が出来ませんでした。
ですが、とにかく救助出来る人を早く助けるため、妊婦や子ども、それから車の上に乗って流されて来る人などの声を頼りに救助活動をしていました。

安否確認と連絡方法の課題

(聞き手)
 津田様の自宅ではどのような出来事があったのでしょうか。

(津田様の奥様)
妊婦さんと、2歳くらいになる男の子が、ずぶ濡れの状態で消防団のボートに助けられました。
そして、その2人がとても寒そうに震えていたので、自宅に泊める事にしました。子どもは大泣きをしていたので、見ていて気の毒になりました。暖を取る事も出来ませんでした。それから、近所の人たちも助けを求めて我が家に来ましたが、どうする事も出来ませんでしたが、とりあえず、主人の衣類などを貸したりして、出来る事をしました。
その後、役所へ弟を探しに行った時に、自宅に泊めた妊婦さんを探している、会いたいとの事で、その方を探す貼り紙がありました。
私の自宅にいる事を教えてあげたいと思いましたが、なかなか連絡が出来なくてもどかしい思いをしました。

低体温症や負傷への対応

(聞き手)
 救助活動の中で、特に印象に残っている事は何でしょうか。

(津田様)
救助活動をしていた時に、低体温で生きるか死ぬかの危ない状態の人が2人いたので、これは大変だと思い、消防無線を使って、救急車でもトラックでもいいから助けに来てくれと頼みました。
そうしたら、消防署員の方がトラックのような車で来てくれました。本当に大変な状況でした。
それから、八幡公民館に担架があるから、それで運んでくれと頼みましたが、誰も担架の場所がわかる人がいませんでした。ですから、自分で公民館へ行って担架を持って来てトラックに乗せてあげました。

(津田様の奥様)
担架が用意できない間は、現場から持って来た発砲スチロールを使って、負傷している2人の体を持ち上げました。
どうにかして自宅まで運ぼうとしましたが、助けた場所が離れていたので、仕方なく近くにある家の裏へ連れて行きました。
低体温のため、とりあえず布団を用意して、濡れている服を脱がせる事にしました。
その女性は、声を出す元気もない様子でした。もう1人の男性は体が骨折していて痛い様子を見せながら、自分が運転して彼女を乗せていたと言っていました。

行動が制約される消防団活動

(聞き手)
 救助活動の担当地区はどちらですか。

(津田様)
私たちが所属している第5分団の管轄が八幡と桜木地区なのですが、その全域が被災してしまいました。第5分団のポンプ置き場の2階が詰め所なので、毎日約20~30人で寝泊まりして、遺体などの捜索をしました。

(聞き手)
第5分団の団員は何人くらいいらっしゃるのですか。

(津田様)
その当時は、32~33名おりました。
多賀城市の消防団では団員数が一番多いです。夜通しの救助活動から一晩明けて、朝早くに八幡公民館へ向かいました。
そして、八幡に5つある区の区長たちと対策本部を設けて、これからの行動を相談し合いました。
それから、消防団に行って話し合いもしました。
ただ、私たちは市の命令がないと勝手に動く事が出来ないので、もどかしい思いでおりました。
近くには、遺体が、浮いていたり、庭木に引っ掛っていたり、車の中にシートベルトをしたまま亡くなっている人もたくさん見ました。
亡くなっている人たちには申し訳ないですが、まず、お年寄りたちの安否確認を優先して行う事にしました。
私は区長でもあったので、どこに誰が住んでいるのか、だいたいわかっておりました。
ですから、その人たちの家へ向かい、生存者の確認をして行きました。
また、八幡地区のあるおじいさんの姿が見えないとの連絡を受けたので、確認をしに行きました。
そうしたら、おじいさんは茶の間で亡くなっておられて、おばあさんは自宅2階にいるのを見つけました。
当時、津波が来るという事で、おじいさんは外へ様子を見に行ったとの事でした。
そして、急いで自宅に戻って来ましたが、波の勢いが早いため、そこで息絶えたようです。おばあさんは気が動転していたせいか、2階で呆然としておられたとの事でした。

地区住民の団結力

(聞き手)
 地区住民の方たちは、どのように過ごされていたのでしょうか。

(津田様)
震災翌日から、すぐに公民館に婦人防火クラブや地区の有志の人たちが集まって炊き出しをして頂いたので、本当に助かりました。
皆の団結力があって出来た事だと思います。

(津田様の奥様)
私も、この地区の婦人防災クラブの役員をしているのですが、地区の方に手伝って頂いて炊き出しをしました。
みんなは被災に遭ったにもかかわらず、市役所の人が来る前から協力して頂きました。農家の人からはお米を分けて頂きました。

(津田様)
それから、お米を精米する発電機を持って来て、それに使用する燃料を農家の方に頂いて機械を回す事が出来ました。
そして、かまどを作って、八幡公民館の前で炊き出しをしました。焦げたご飯になりましたが、皆で分けて食べました。

(津田様の奥様)
お寺の方にもたくさんの人たちが避難していたので、焦げたご飯をおにぎりにして持って行きました。小さく焦げたおにぎりでしたが、皆さん、美味しいと言って召し上がっていました。その時は、食べる物が何もなくて、とにかくお腹が空いていましたからね。
私の主人も、お腹が減ったという事で呆然と立ち尽くしていたようでした。
近所の人が「区長さんが、お腹減ったと言っていたけれど、私は何もあげる事が出来なかった」と言っていました。
あの時は、気持ちが滅入っていたし、体の疲労も溜まっていたので、余計に空腹を感じたのだと思います。

浸水地域の復興の問題

(聞き手)
 救助活動以外に、どのような活動をされたのでしょうか。

(津田様)
3月11日は、無我夢中で救助活動をしました。
次の日、堤防の上で犬を連れて散歩している人を見かけました。砂押川を隔てた北側の地区の人たちは、何が起きたのか全くわからない様子でした。
ですから、事実を知って驚いていました。あとは物資の事ですが、作業で使用していたトラックが、たまたま車検のため、八幡公民館に置いてありましたので、そのトラックを使って物資を運びました。
車のガソリンがなくなった時は、私は消防団員ということもあり、ポンプ車のガソリンを分けて頂いて運びました。

(聞き手)
本当に目いっぱい働いていたのですね。

(津田様の奥様)
その時の事は、あまり思い出せません。

(津田様)
宮内地区で今度、区画整理をする事になりまして、市の方で動いています。
あの辺りは商業地域として、多目的公園など、皆が集まるような場所にしたいと思っていました。
ですから、これからますます発展するという事を市の方に訴えました。
しかし、宮内に住みたいという人があまりいないのが現状です。
昔からそこに土地を買って住んでいる方はまた住んでもいいとおっしゃっていますが、砂押川を隔てた場所に住んでいる人は、宮内には住む事は出来ないし、土地を買う人などいないのではないかとおっしゃいます。
津波を体験していない人たちに言われると、とても悔しいです。
私としては、宮内地区はとても良い場所だと思っています。
仙台港もあるし、アウトレットなどのショッピングセンターもあります。ですから、今後は発展する場所にしたらいいのではないかと考えています。

(津田様の奥様)
私は、宮内辺りは土地も広いからスポーツ施設などを作るといいと思いました。そして、他県から来た人が宿泊出来るような形になると便利だと思います。

復興をめぐる住民の合意の難しさ

(聞き手)
 区画整理に関して、考えはありますか。

(津田様)
私は、区画整理するのかしないかどちらが得策なのかと考えました。しかし、私が反対するとそこに住んでいる人たちに迷惑が掛かるし、気持ちもわかるので、区画整理に同意してハンコを押す事に決めました。そして、区画整理する中での話し合いをしたらいいのではないかと言われたので、代表として話し合いをする事になりました。
そうしたら、話し合いの中で、私の意見と他の人たちの意見がかみ合いませんでした。何故かと申しますと、話し合いに参加している人たちは、現在そこに住んでいない人たちで、今後どのようにしてほしいかという事を主眼に置いて参加していたからです。
私は住む所もあるし、土地は貸す事も、建てる事も出来るので何も支障がないと発言しました。ですが、なかなか意見が合いませんでした。

(津田様の奥様)
私はアパートの経営をしていました。しかし、震災で被害を受けてしまったので、その収入が途絶えてしまいました。これでは、生活に困るので、どうにかしてくださいとお願いしたのですが、市からは補償出来ないという回答でした。

災害が生んだ心の繋がり

(聞き手)
 災害を経験しての思いをお聞かせください。

(津田様)
大きな被害を受けた時に、思いもしなかった人たちが、皆集まって一生懸命に炊き出しを手伝って頂きました。
本当に不思議な事ですが、災害が起きた事により、心の繋がりが出来たと感じました。
災害の経験を通して、人と支え合う事で強くなるし、お互いに譲り合う気持ちが大切な事などを学びました。
本当に人とのコミュニケーションが大切なのだという事がわかりました。今までそういう経験がありませんでしたからね。

(津田様の奥様)
人間は辛い時にこそ人の心がわかると言いますが、それを垣間見た瞬間だったかもしれません。同時に、水不足の時に、我先に手に入れようとする人たちの姿など醜い部分も見えて来ました。

(聞き手)
 この震災を経験して、強く実感したことはありましたか。

(津田様の奥様)
今までは、日本は地震国という意識はありましたが、あまり深く考えてはいませんでした。ですから、防災訓練などを必死になって行う気持ちも湧きませんでした。
この震災を経験してようやく地震国なのだという事を実感するとともに、ボランティア精神は人間の基本的な事だと思いました。

(津田様)
とても感動した出来事もありました。
震災時に、高崎中学校の先生が、皆が無事に避難しているのか確認するために、わざわざ自転車で八幡公民館に来てくださいました。
あの辺は泥だらけで自転車ではまともに移動できる状態ではないのに、その中を先生は回って歩いていたようでした。とても感動しました。